シブヤ渋谷デート
シブヤは池袋、新宿と並ぶ三大副都心で日本を代表する繁華街の一つです。
西武百貨店・東急百貨店・パルコ・丸井などのデパートや専門店・飲食店などがシブヤには立ち並んでおります。
シブヤ駅前には忠犬ハチ公の銅像があり、待ち合わせの名所として有名です。
シブヤは若者の街として知られ、原宿と並ぶ流行の発信地です。
シブヤの地形
シブヤは武蔵野台地の縁端部にあり、シブヤ川に沿った谷となっている場所です。
谷両側の勾配は大変厳しく、例えばシブヤマークシティは谷底に1階の出入り口がありますが、谷上部では4階からも出入りができます。
現在、シブヤ川は国道246号との交点より上流は暗渠化されていますが、一部は東急デパート東横店下を流れています。
シブヤ川には、宇田川が注ぎ込んでいますが、こちらも現在は殆ど暗渠化されています。
現在の行政区分ではシブヤ周辺に代々木、神宮前(原宿)、青山、代官山等の地域があります。
シブヤの文化
渋谷パルコ劇場、クラブ・クアトロ、シネセゾンシブヤ、スタジオパルコなど、ライブハウスや劇場、映画館が多く、映画祭も開催されています。
作家性にこだわった個性的な作品を上映する映画館も多いです。
篠山紀信写真展など多くの企画展を開催してきたパルコミュージアム(2007年閉館)、新しい情報発信スペースのパルコファクトリー、ロゴスギャラリーなどでも、アートから社会性の高いテーマまでを扱った様々な企画展示をしています。
「TOKYO FMシブヤスペイン坂スタジオ」などラジオ局のサテライトスタジオもあります。
東急は東急文化会館跡地に都内最大規模のミュージカル劇場を建設する予定です。
シブヤのファッション
シブヤは1970年代から、PARCOの進出や109の誕生などで、若者のファッション文化の発信の地として原宿と並ぶ地位を確立しました。
1990年代にはギャルブームやメディアに盛んに取り上げられたことで、シブヤは更に情報発信源として注目されるようになりました。
シブヤの百貨店の主たる顧客層の20,30代のOLが大人のファッションをリードし、10代の女性は109やパルコ、路面店などで服を買い求めギャルファッションをリードしました。
ギャルファッションが男性に波及したギャル男ファッションや、お兄系と呼ばれるファッションもシブヤから広がり、全国区になりました。
ギャルファッションのイベントとして、シブヤコレクションが知られています。
またシブヤは古着店も多いことで知られています。
シブヤのIT
IT関連のベンチャー企業がシブヤ近辺に集っており、国土交通省の調査によるとソフト系IT産業の事業所数は、千代田区、港区に次いでシブヤ区は3位であり、駅別ではシブヤ駅は、秋葉原駅に次いで2位であることなどから、「シブヤ」を1文字ずつ英語に訳した "bitter valley" と情報量の単位の「ビット」からアメリカのシリコンバレーになぞらえて「ビットバレー」と呼ばれることがあります。
シブヤの歴史
シブヤは吾妻鏡などの歴史書に、平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、この付近を本拠としていた武将シブヤ氏の活動の記録が残されており、その一族に河内源氏の源義朝の近従だった渋谷金王丸がいます。
江戸時代には大山街道(現在の国道246号にほぼ一致)沿いのシブヤは集落として栄えました。
明治時代になると1885年に山手線が開通し、その都心よりに東京市電が、西側に玉川電鉄(現・東急田園都市線)が接続したことから、交通の結節点としてシブヤは発展していくこととなりました。
以後も1927年に東横電鉄(現・東京急行電鉄)東横線、1933年に帝都電鉄(現・京王電鉄井の頭線)、1938年に東京高速鉄道(現・東京地下鉄銀座線)と次々に新線がシブヤに開通し、ますますシブヤの地位を高めていく事になりました。
その中でも注目すべき事は、五島慶太の率いる東横が1934年にターミナルとなるシブヤ駅にデパート(現・東急百貨店東横店)を小林一三率いる大阪の阪急の梅田駅の手法に倣って設けたことで、関東では東武浅草駅の松屋に続いて2番目、全国でも3番目となるものでありましたが、それまで鉄道でシブヤに来た後に銀座・上野方面へ市電やバスで向かっていた客がシブヤで買い物をするようになり、成功を収めました。
1938年、前山久吉の所有していた三越株の譲渡の話が持ち上がりました。
そこで五島は東横百貨店を三越と合併させ、東横を三越のシブヤ支店にしようと考え、10万株を購入しました。
しかし、三井財閥の中枢企業である三越の乗っ取りを阻止するために三井銀行は東横への融資を停止します。
三井の要請を受けた三菱銀行頭取の加藤武男も慶應閥の牙城だった三越の買収に手を貸せば非難が向くと判断し、融資を停止しまた。
五島は三井・三菱を相手に戦いを挑まねばならなくなりました。
もちろん資金繰りは悪化。
慶應閥に大いに顔が利く小林に助力を依頼しましたが、小林に「シブヤのような片田舎の百貨店がそんなことをするのは、蛙が蛇を飲み込むより至難」と諭されます。
戦後になるとシブヤは1954年に東急会館、1956年に東急文化会館が設けられ、「東急の街」として発展していく事になりました。
だが、シブヤが現在の地位を手にすることになるのは昭和40年代以降であり、きっかけはセゾン系列の西武百貨店が1968年にシブヤへ進出した事によるものであります。
以後、東急と西武による開発競争が始まり、西武系のパルコ・ロフト、東急系の109・東急ハンズ・Bunkamuraなどが次々とシブヤに完成しました。
西武は通りの名称をスペイン坂、シブヤ公園通りなどに変え、再開発も同時に進めることで現在の街並みが形作られていきました。